「名前のない仕事」ができる人は強い

ℹ この記事は推敲中のため、今後大幅な変更が加えられる可能性があります。

ここのところ至るところで話している気がするので、この機会にブログにまとめておくことにする。

最近人にポジティブなフィードバックをするときや、ある人の仕事ぶりをポジティブに伝えるときに「名前のない仕事」という言葉で表現することが非常に多くなった。
この表現自体は以前から必要に応じて使っていたものの、感染症の影響下にあった世界の雪解けにつれて、こう表現できるシチュエーションが増えたように感じる。

「名前のある仕事をそつなくこなすことは誰でもできる、ただ名前のない仕事は、その意識と実行力が伴った人間が行って初めてできる」という言葉の理由を改めて伝えたい。 直接話す人達にはその文脈に即したその人の活躍を交えて伝えられるが、誰に対してもその機会があるわけではないので。そのため抽象的な話にはなるが、この記事を通じて企業組織に所属する多くの知人・友人に間接的に伝えられると嬉しく思う。

tl;dr

  • 職種や定量的な目標に基づく仕事は多くの人が取り組んでおり主要業務なのは事実である
  • 一方でそれらに基づき個別最適を行った場合に全体最適を考えた上で問題となるような課題は偏在しており、そこへのアクションは未定義なことは多い
  • そういった課題を仕事へと昇華し、解決できる人間は希少であり、大きな価値を持つ。意識的にできるとそれは強みとなる。

そもそも「名前のある仕事」とは

意図的に「名前のない」とまで表現しているからには、当然「名前のある」仕事も存在することになるが、それはなんだろうか。私はロール、あるいは指標がある仕事がそれに該当すると考えている。

前者は非常に単純明快。例えば私は「エンジニアリングマネージャー」であり、「Webフロントエンドエンジニア」でもある。これらは組織にも業界にも明確にロールとして定義されており、多くの人にがその役割と責務をイメージできるまさにそのままの名前がついた仕事だろう。 フロントエンドエンジニアであれば、Web アプリケーションや Web サイトのフロントエンド領域全般を担当し、それを適切に実装するための関連業務を行うことに責任を持つことがある程度容易に想像できる。
もちろん人によってその解像度に差はあれど、どのような業務において協業する機会があり、何を期待すれば良いかは明確と言える。

これがロールに割り当てられた名前であり、これがあるからこそ適切な分業が実現しているし、組織において個人の役割を定義し、活躍を評価するための軸にもなっている。

後者はロールと比べると少し分かりづらいが、KPI のような数値目標をイメージしてもらうとわかりやすい。 それはユーザー数でも良いし特定のファネルまでの到達率でもチャーンレートでも何でも良い。定量的に図ることができ、その達成を目標として戦略を練ることができるような軸はどれも指標といえるだろう。

これも主語が人からモノ、あるいはモノへの成果へと変わっただけであり、本質的に求められるものは変わらない。
ユーザー数ありきの KPI に責任を持つ人は新規獲得を他者に期待するだろうし、新規獲得に奔走する人はその後の離脱を減らすための定着を他者に期待している。

追うべきものが個人の職能ではなく数字へと変わっただけであり、それぞれの仕事領域の軸に明確な線引きがある。それらを越境することこそあれど、役割と責任は明確と言える。

つまるところ他社からの期待と自己認知が明確に定まっており、客観的に 100% とそこを指標とした定量的なグラーデションが状態がわかりやすいものは、全て名前のある仕事となる。そしてこのような仕事は、実際のところ組織における業務の大半を占めているだろう。

名前のある仕事は健康度に寄与しない

名前のある仕事は業務の大半を占めているだけあり、その価値が揺らぐことはない。
制定された KPI があればその目標達成が達成を、職種が明確に定義されているのであればそのR&Rに沿った立ち居振る舞いを実現すると、自動的に成功につながるよう設計されているはずだ。あえて失敗する目標やロールを据える必然性は存在しないため、名前のある仕事は全てそのミクロな成果がマクロな成果に繋がると評価されてそこに存在する。そしてこれは組織という凡人の集合体において、大きな意味を持つ。

たとえば KPI があり、それに責任を持つ人がいれば、その人の評価を決定づけるのはその達成率にほかならないだろう。そうすると、責任者は KPI を達成することこそが個人にとっての成功となるため、それに向けて奔走するだろう。そして当然ながら個人が目標とした KPI は、KGI などより上位の結果につながるように設計され、結果として組織にとって最適化された何かしらのゴールへと貢献する。

つまり KPI は組織目標でありながら、一方で個人からみた場合においても報酬(=評価)に直結しており、個人の視座を悲観的に見た場合にこれほどまでに合理的なスキームもないと言える。営利目的の企業という組織において成長には攻め続けることが必須であり、自動的に「攻め」を促すために最適化された美しいあり方とも言えよう。

しかしながら攻めはどこまでいっても攻めの域を出ない。
当然だが個人がそれぞれの個別最適に向かって歩んだ場合、誰のカバレッジにも属さない課題や、未定義の課題が出現する。そしてそれらを職掌範囲のみで定義した際、拾える余地がないことは、残念ながら想像に難くないところである。

組織のスケールに伴う既存の仕組みとの不和、職種間の協業が必要な領域の新規定義、新たに出てきた課題の止血など。普段仕事をしているだけで新たな課題など山のように降り注いでくる。組織の健康度を著しく低下させ、はじめは小さな歪みはやがて大きな問題へとつながるような組織を蝕む課題に対しては、名前のある仕事たちが貢献することはほとんどない。

未定義の課題を名前のない仕事にすること

そんな歪みを正すことは容易ではない。もしそれを解消することによる恩恵がわかりやすいものなのであれば、すでにどこかの枠組みに属しており、解消されているはずだ。

ではどうするのか。その答えは一つ、視野狭窄に陥った部分最適を捨て、全体最適のもとの合理性を追い求めることしかない。
先述の通り、組織の構成員のほとんどは名付けられた仕事を十全にこなすことを求められている。そのため今あげたような課題は、取り組むことこそが自身の利益と相反し、合理性を欠く行為にさえ映るかもしれない。

だがそれは、そもそもその仕組みや合理性の基盤が「最低保証のために存在する最大公約数的期待値」であるからで、実のところ視座が高い人であればあるほど、その物差しで物事を、そして人間を評価していない。
本来の理想は全体としての成果が最大化されていることであり、それを個々人にチューンするのが現実ではないゆえに、定量的な目標やわかりやすいカテゴライズだけが残っているに過ぎない。 言わば明確な目標や仕事のゴールというのもまた妥協の産物であり、最適化すべきは本来その小さな単位ではないということになる。

そうなると、これまで浮いてきた仕事の実態が見えてくる。誰も拾わない仕事たちは誰も拾わないものではなく誰も拾えないということになる。所属組織などに依存し複雑であり、定量的な数値をメトリクスとできるほど誰でもできるものではない仕事たち。故にこれらは課題の状態で止まっているし、名前もつけられていない。

つまるところ「頼めないし上は動けないだけで重要な仕事」であり、一見誰もやらずに重要度の低いように見えた仕事たちは、敢えて命名できるほど一般化されていないだけの重要課題たちなのである。
名前のなかったものたちは名前をつけるまでもない些末な課題ではなく、名付けすらも困難な「名前をつけられない課題」だったというのが実のところといえる。

もしあなたがそれを発見したり、誰かが見て見ぬふりをしているところを見つけたときは、ぜひ対策を実行し、課題を解消してほしい。
目的とゴールを定義できない課題にそれらが生まれたとき、はじめて正しく仕事に昇華されることになる。

要求されるのは後天的に身につけられる少しの審美眼と、仕事を心理的コストで重み付けしないフラットな感情のありかたの二つだけ。
それらをもって臨むことができれば、着手してしまえば意外と簡単なはずだ。

そして一見非合理に見えるかもしれないこのような課題を名前のない仕事へと昇華させ、それをやりきる行為は無駄ではなく、大きなリターンとして返ってくることも期待できる。
これらは組織において「いつか誰かがしないといけないこと」であり、あなたが行わなかった場合、より上層がトップダウンで解決することになっていたかもしれない。

それをあなたが行ったということは、全体最適にいち早く貢献することでマイナスの影響を最小限に抑えることがその時間に応じて効いてくるのはもちろん、本来自分より高単価であり時間も貴重な優秀な人材の仕事を奪うことができたことになる。その結果はほとんどのケースにおいてマクロで見たときにいち個人の成果が多少良いものになるよりも効果があるはずで、適切にそれを言語化し、伝えることができた日には、その活躍は十分に認められるはずだ。

結局は「目的から定義しないといけない仕事」みたいな部分に落ち着くし、それを定義できるのは後天的に獲得できるけれど専用のスキルだよね。みたいな話はいずれ盛り込みたい。

名前のある仕事も、同じかそれ以上に大切にすること

一つ注意しておきたいのは、決して名前のある仕事を疎かにして良いというわけではないこと。

課題を拾って解決してくれる人という属性は希少価値を持ち、それ単体で一定の強みを持つが、それは戦力として十分に換算されてからの付加価値となる。
もしあなたがジュニアクラスやミドルクラスの職位を与えられており、その役割を十分にこなすことが期待されている場合は、まずは真摯にそれに取り組むことが望ましい。

それはまずは何より期待に沿った業務をすべきということももちろんあるが、名前のない仕事は組織課題に直結していることが多いため、何よりも組織や環境に対する解像度が求められるからに他ならない。
自分が抱えた課題が本当に組織レベルの課題なのか、それとも自分の解像度の低さゆえに見えている錯覚なのかをキャリブレーションする機能が備わっていない段階では、ただの軋轢のきっかけとなる最悪の結末すらもあり得る。
もちろんより解像度高く状況を把握できる人がいる場合にエスカレーションするなどは有効かもしれないが、それ以上はかえって自分が問題を作り出す側に回ってしまうリスクすらありえる。

逆にもしあなたがミドルクラス以上で自分の担当領域の研鑽のみを行っているのであれば、ここで話した名前のない仕事に取り組んでみるチャンスかもしれない。
ここに至るまでと比較するとサチュレーションしつつあるように感じられるスキルの幅と見える世界が大きく変わり、かつ希少性のある存在へとショートカットするチャンスかも知れない。

ただどちらにせよ、まずは自身に与えられた「名前のある仕事」で十分に高い解像度を有する状態になり、そしてその後に「名前のない仕事」に取り組むかを考えるのが良い。

人と組織はその先に管理職という名をつけたがるかもしれないが、その誘いに乗らずとも、名前のない仕事を作る能力は自分を支えつづける大きな武器となってくれるはずだから。

おわりに

最後に余談となるが、以前これまで敢えて触れてこなかった自分の強みについて、Twitterで言及したことがある。

時代であったり組織であったりはたまた業界であったり、そういった自分が見える世界の潮流を何よりも敏感に察知して、それを追い風とする。そんなことを強みとして生きてきた人生ではあるけれど、そこにひとつまみの意思を載せることがほんの少しだけ上手くなった気がする。

この記事で挙げた話は潮流を追い風とする自分の生き方の中で有効活用してきた How の一つであり、ある意味普段の自分らしく表現すると「手品の種明かし」の一つにもなる。
ありがたいことに自分は多くの人に評価されてきた自覚はあるが、それはシンプルに時間を切り口とした場合のコスト帯効果が抜群な仕事を遂行しているからに過ぎない。

「名前のない仕事」は思考と精神のリソースを大量に要求するかわりに物理的なリソースの要求は非常に小さい。その結果、着手すればするほど成果量は増大する。それを人は「本質的な仕事」とポジティブに表現するかもしれないが、少なくとも自分はこれもただの手品の一つでしかないと捉えてしまっている。

ただひとつ言えることがあるとすると、「誰かがやらないといけないことであり、やる人はそれ自体が強みになる」ということは恐らく真実だということ。

積極的な人も、自信がない人も。秀才であることが心の支えになりうる人にとって、これを意識し、遂行することは少し生きやすくなるための道標になるかもしれない。
これほど表層はホスピタリティで塗り固められながらも、本質は合理的な損得に大きく影響するものも多くはないのだから。

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